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第4話 私があなたを拒絶します

last update publish date: 2026-09-14 11:20:29

第4話 私があなたを拒絶します

 王太子付き侍医の印が押された薬瓶は、見た目よりもずっと重く感じられた。

 エララは月草を含んだ薬を二つの小瓶へ分け、一つを礼装の内側へ縫いつけた隠し袋に収め、もう一つをリナへ預けた。証拠を一か所へ集めておけば、相手に気づかれたとき、まとめて奪われる恐れがあるからだ。

「こちらは、私の部屋へ置かないほうがよいですね。侍女用の洗濯籠へ隠します。旦那様や教会の方々が調べに来ても、まさか使用済みの布巾を一枚ずつ確認するとは思えません」

「あなたは時々、私よりも大胆なことを言うわね」

「侍女は、主人が見ないところで失敗を片づけるのが仕事ですから、隠し場所を考えることには慣れています。ただし、後で私だけが盗んだことにされるのは困りますので、これがエララ様のご命令だったという覚書を書いてください」

「私を信用していないの?」

「信用しているから、書いていただくのです。善い人でも、追い詰められれば自分を守るために記憶を都合よく変えます。私はエララ様を好きですが、自分の人生まで無条件で預けるつもりはありません」

 リナの言葉に、エララは一瞬だけ驚いた後、素直に頷いた。

 昨日までの自分なら、好意を口にした直後に条件をつけられたことを寂しく思ったかもしれない。しかし、火刑台へ至るまでの人生でエララを縛り続けたのは、家族なのだから、婚約者なのだから、聖女なのだからという、条件の曖昧な信頼だった。

「あなたの言うとおりね。覚書を書きましょう。私が生きて戻れなかった場合、この薬と覚書をノクサール帝国の大使館へ届けてちょうだい」

「どうして敵国の大使館なのですか」

「今のソルメア王国で、王家と教会の両方を恐れず、証拠を公にできる場所がそこしか思いつかないの」

「生きて戻れなかった場合などと、簡単に仰らないでください。私は一人で敵国の大使館へ駆け込むほど勇敢ではありません」

「では、二人で戻ってきましょう。それなら問題ないでしょう?」

「初めから、そう仰ってください」

 リナは不満を残した顔で薬瓶を受け取ったが、手つきは慎重だった。

 エララは短い覚書を二通書き、一通をリナへ渡し、もう一通を自分の隠し袋へ収めた。その上で、月草の薬を入れていた元の薬瓶には、よく似た色と苦みを持つ滋養薬を入れ直した。

 誰がエララの反応を確かめに来ても、薬を疑っているとは気づかれないはずだ。

 支度を終えて玄関広間へ下りると、父とミレルがすでに待っていた。

 ヴェイル公爵は懐中時計を確認し、娘の姿を見るなり、遅いと叱る代わりに安堵したような息を吐いた。儀式へ遅刻して公爵家の面目を失わずに済むと考えたのだろう。

「ようやく来たか。馬車はとっくに用意できている。王家の使者を待たせるわけにはいかないのだから、もう少し時間を考えて行動しなさい」

「予定された出発時刻まで、まだ十分ございます」

「身分の高い者を待たせないためには、予定より早く行動するのが当然だ。お前はこれから王太子妃となるのだから、いちいち言われなくても分かっていなければ困る」

「予定より早く出れば、大聖堂の受け入れ準備が整っていない可能性があります。相手の都合を確認せず、自分が早く着けば礼儀にかなうという考え方も、少し一方的ではありませんか」

「朝から、なぜそのように言葉を返す。緊張しているのは分かるが、周囲へ当たり散らしてよい理由にはならない」

 父の言葉には、娘を心配する気持ちがまったくないわけではなかった。ただ、その心配を素直に口へ出すことができず、いつも叱責という形へ変えてしまう。

 エララは以前なら、その不器用さまで理解し、父には父なりの愛情があるのだと自分を納得させていた。

 しかし、伝わらない愛情を受け取るため、傷つけられる側だけが努力し続けなければならない関係は、やはり健全ではない。

「お父様、私は当たり散らしているのではなく、違うと思ったことを違うと申し上げただけです。今日の私は、父の命令に頷くためではなく、自分の人生を決めるために大聖堂へ参ります」

「お前の人生が王家と公爵家の未来に結びついていることを忘れるな」

「忘れておりません。ただ、結びついていることと、私の意思が存在しないことは同じではありません」

 父は何か言い返そうとしたが、玄関前で待つ王家の騎士たちの視線に気づき、言葉をのみ込んだ。

「この話は帰ってからだ。今は余計な騒ぎを起こすな」

「帰ってからお話しできる関係が残っていれば、喜んで」

 エララが微笑むと、父は理解できないものを見るように眉を寄せた。

 ミレルは二人のやり取りを不安そうに見守っていたが、エララと目が合うと、慌てて明るい笑顔を作った。

「お姉様、馬車の中でお休みになったほうがよいのではありませんか。お薬を飲んだ後ですし、急に動くと目眩がするかもしれません」

「今のところ、体調に変わりはないわ」

「そうなのですか。けれど、薬は少し時間が経ってから効いてくることもあるそうです。もし気分が悪くなったら、遠慮せずに私へ仰ってください。私、お姉様の代わりにできることなら何でもしますから」

「私の代わりに、何をするつもりなの?」

「それは、もしもの話です。大聖堂で歩けなくなったら支えますし、誓約の言葉を忘れたら教えて差し上げます。私はお姉様ほど何でもできるわけではありませんけれど、少しくらいは役に立ちたいと思っているだけです」

「そう。では、今日一日、私から頼んでいないことを代わりにしないでくれる? それが一番助かるわ」

 ミレルの笑顔が、わずかに固まった。

「お姉様は、私が邪魔なのですね」

「私は、頼んでいないことをしないでほしいとお願いしただけよ。そこから自分が嫌われているという結論へ進むのは、少し早すぎるのではないかしら」

「お姉様なら、以前はそのような言い方をしませんでした」

「そうね。以前の私は、あなたが傷ついた顔をすれば、自分が悪かったのだと思ってすぐに謝っていたから」

「では、今は私が傷ついても、何とも思わないのですか」

「傷つけたいとは思っていないわ。ただ、あなたが傷つかないために、私が何も言えなくなる関係は終わりにしたいの」

 ミレルは、これ以上話せば涙がこぼれると思ったのか、俯いたまま馬車へ乗り込んだ。

 その背中を見ながら、エララの胸にも鈍い痛みが残った。妹を言い負かしたいわけではない。以前のように笑い合えるなら、そうしたいという未練もある。

 けれど、優しくすることと、相手の望むままに振る舞うことは違う。

 エララは父とミレルに続き、馬車へ乗った。

 大聖堂までの道には、王太子と聖女の番選びを見物しようとする民衆が詰めかけていた。月花を模した白い旗が建物の窓から下がり、子どもたちは銀色の花びらを馬車へ投げている。

「聖女エララ様、万歳!」

「王太子殿下と聖女様へ、月神の祝福を!」

 窓の外から届く歓声に、エララの指が震えた。

 一年後、同じ道を罪人用の檻へ入れられて通ったとき、沿道にいた人々は石を投げた。今日と同じ顔があったかどうかは分からない。それでも、祝福の声が罵声へ変わり、白い花びらが石へ変わった記憶は消えなかった。

 視界の端で、積み上げられた薪が燃えているように見えた。

 花の香りが月桂油の甘い臭いへ変わり、胸が息を吸うことを拒む。

「お姉様、大丈夫ですか。やはり薬が効いてきたのではありませんか」

 ミレルが手を伸ばした。

 エララは反射的に身を引きかけたが、伸ばされた手が銀鎖ではなく妹のものだと確かめ、座席の布を握って耐えた。

「少し、人の多さに驚いただけよ。触れずにいてくれると助かるわ」

「でも、お顔が真っ青です。大聖堂へ着いたら、ガストン先生に診ていただきましょう。先生なら、薬の効き方も分かるはずです」

「薬を用意した本人に、効き方を確認するの?」

「ええ、そのほうが安心でしょう?」

 ミレルは何の疑問も抱いていないように答えた。

 エララは窓へ視線を戻し、呼吸を整えた。広場に積まれているのは薪ではなく、祭礼で配る花籠だ。騎士が持っているのは処刑人の槍ではなく、王家の旗である。

 そして、今日は死ぬ日ではない。

 誰かがエララのために用意した筋書きを、自分の手で壊す日だ。

 馬車が大聖堂の正面へ到着すると、銀狼の紋章が縫い取られた純白の外套をまとう王太子ルシアンが、階段の下で待っていた。

 月光を思わせる銀髪と、青みがかった灰色の瞳を持つ美しい青年だった。人前ではいつも背筋を伸ばし、相手の身分に合わせた完璧な微笑みを浮かべるため、民衆からは慈悲深い銀狼王子と呼ばれている。

 エララも長い間、その笑顔を愛していると思っていた。

 馬車の扉が開くと、ルシアンは一度ミレルへ視線を向け、それからエララへ手を差し出した。

 その一瞬の動きは、以前なら気づかなかったほど小さなものだった。

「エララ、迎えに来た。今日という日を君と迎えられたことを、心から嬉しく思う」

「お待たせいたしました、ルシアン殿下」

 差し出された手へ自分の手を重ねると、彼はいつものように指先へ口づけた。

 十年間、何度も繰り返してきた挨拶だった。しかし、火刑台でケイルが焼けたエララの額へ自分の額を重ねたときに感じた熱と比べると、ルシアンの口づけからは何も伝わってこなかった。

 エララは自分の心が、すでにこの男から離れていたことを知った。

「体調はどうだ。朝、食事が喉を通らないと聞いて、ガストンに滋養薬を届けさせた。少しは楽になっただろうか」

 ルシアンは声を潜めて尋ねた。

 やはり、薬が届けられたことを知っている。

「お気遣い、ありがとうございます。おかげさまで、身体には何の異常もございません」

「何の異常もないのか」

「ええ。目眩も動悸もありません。聖力も、いつもどおりです」

 ルシアンの指が一瞬だけ強張った。

 すぐに笑顔へ戻ったが、驚きを隠し切れたとはいえない。

「それならよかった。今日は何が起きても、私を信じてほしい。儀式の結果が我々の望んでいたものと違っても、私はできるだけ君を傷つけない形で収めるつもりだ」

「我々の望んでいたものと違う結果が出る可能性を、殿下はご存じなのですか」

「可能性の話だ。番選びは月神の意思を示す神聖な儀式だから、人間が結果を決めつけるべきではないと、大司教から助言を受けた」

「では、私からも一つだけお願いいたします。何が起きても、私が黙って受け入れるとは思わないでください」

「どういう意味だ」

「言葉どおりです。殿下がご自分の未来を選ぶように、私も自分の未来を選びます」

 ルシアンは困惑した顔でエララを見た。

「エララ、君は緊張しているのだろう。いつもの君らしくない。儀式が終われば、すべて落ち着くから、今は余計なことを考えず私に任せてくれ」

 いつもの君らしくない。

 それは、相手が自分の望むとおりに振る舞わなくなったとき、ルシアンが必ず口にする言葉だった。彼にとってのエララらしさとは、決して怒らず、決して拒まず、最後には自分の判断へ従うことなのだ。

「承知いたしました。では、儀式を始めましょう」

 エララはそれ以上何も言わず、ルシアンの手を離した。

 大聖堂の中には、王族、貴族、各国の使節、教会の高位聖職者が集まっていた。高い天井を支える白い柱には銀の蔦が絡み、中央の聖壇には運命を映すとされる月鏡の水盤が置かれている。

 正面の王族席には国王と王妃が座り、その後方にはヴェイル公爵が立った。ミレルは予定どおり、聖壇から数歩しか離れていない親族席へ案内された。

 さらに、司祭たちの後ろには王太子付き侍医のガストンがいた。

 五十代半ばの痩せた男で、銀狼を囲む三枚の薬草が刺繍された外套を身につけている。エララと目が合うと、彼は丁寧に頭を下げた。

 エララが体調に異変を見せないためか、その目には明らかな動揺があった。

「月の民たちよ、本日、我々は二つの魂が神の定めた絆によって結ばれる瞬間を見届けます」

 聖壇へ立った大司教アウレリウスが、両腕を広げた。

 白銀の法衣をまとった彼は、年齢を感じさせない穏やかな顔をしている。孤児院へ私財を寄付し、飢饉の年には自ら食料を配ったことで、民衆から月の父と慕われる人物だった。

 一度目の人生でエララへ偽聖女の判決を下し、処刑を許可したのも、この男である。

「王太子ルシアン・アルブレヒト、そして月の聖女エララ・ヴェイル。聖壇の前へ進み、互いの右手を月鏡の上へ重ねなさい」

 エララはルシアンと並び、月鏡の水盤へ向かった。

 水面には満月が映っていた。大聖堂の天井は閉ざされているため、本物の月が映るはずはない。それでも教会は、この光を月神の奇跡だと説明している。

 右手を水面へかざすと、エララの手首に刻まれた銀色の印が淡く光った。

 ルシアンの腕にも、同じ形の印が浮かび上がる。

 大聖堂の中から感嘆の声が上がった。

 一度目は、この時点ですでにエララの印が薄れ、身体を支えられないほど目眩がしていた。今回は月草を飲んでいないため、印は鮮明な銀色を保っている。

 大司教アウレリウスの表情が、ほんのわずかに曇った。

 彼はすぐに笑みを戻したが、背後へ控える司祭の一人へ小さく視線を送った。司祭はガストンへ目を向け、ガストンは額へ汗を浮かべた。

 偶然ではない。

 教会も、薬の存在を知っている。

「二人の印は、確かに月神の祝福を受けています。しかし、運命とは単純な形だけで測れるものではありません。魂が真に求める相手は、時として人の定めた婚約とは異なることもあるのです」

 大司教が予定にはなかった言葉を続けた。

 貴族席がざわめき始める。

 エララはルシアンの横顔を見た。彼は苦悩を演じるように目を伏せた後、意を決した様子で顔を上げた。

「皆に聞いてほしい。私は今日、王太子としてだけではなく、一人の男として真実を語らなければならない」

 大聖堂が静まり返った。

 ルシアンはエララではなく、親族席にいるミレルを見た。ミレルは驚いたように両手を胸元へ置いたが、その立ち位置は、誰からも顔が見えるよう聖壇の光を受けている。

「私は長い間、エララこそが自分の番だと信じてきた。彼女は優秀で、王太子妃として申し分のない女性だ。しかし、ここ数か月、私の魂は別の者へ強く引かれている。その相手こそ、月神が私へ示した真の――」

「その宣言をなさる前に、私から申し上げたいことがございます」

 エララは穏やかな声で遮った。

 ルシアンは言葉を止め、不快そうに眉を寄せた。

「エララ、今は私が話している。君の気持ちは後で必ず聞くから、まずは最後まで話させてくれ」

「後では困ります。殿下が私を捨て、妹を真の番として選んだ後で私の気持ちを聞かれても、それは同意を求めることではなく、すでに決めた結論を受け入れさせるだけでしょう。ですから、殿下が選択を公にする前に、私も自分の選択を申し上げます」

 大聖堂のざわめきが大きくなった。

「やめなさい、エララ」

 父が貴族席から低い声で命じた。

「これは王家と教会の神聖な儀式だ。感情に任せて勝手なことを口にしてよい場所ではない」

「私は、とても冷静です。むしろ、これまでで一番、自分が何を望んでいるのか分かっています」

 エララは聖壇の中央へ一歩進んだ。

 何百人もの視線が集まっている。火刑台で浴びた敵意とは違うが、次に何を言うのかと値踏みする視線は、同じように身体へ突き刺さった。

 それでも、今度は誰かに決められた言葉を読むのではない。

 自分の意思で、自分の言葉を選ぶことができる。

「私は十年間、ルシアン殿下の婚約者として生きてまいりました。殿下が外交の場で困らないよう他国の言葉を学び、王太子妃として民へ奉仕できるよう治癒院で働き、王宮の帳簿や儀礼を覚えました。それらを後悔しているわけではありません。学んだことも、救えた人々も、私自身の人生の一部です」

「それなら、なぜ今、このような騒ぎを起こす」

 ルシアンは苛立ちを隠さず尋ねた。

「君が私のために努力してきたことは知っている。私も君を王太子妃として尊重し、できる限り大切に扱ってきたつもりだ。今日、たとえ番の相手が別の女性だと分かっても、君の地位や名誉を不当に奪うつもりはない。望むなら、王宮に残って私たちを支える役目を与えることもできる」

「私たち、とは、殿下とミレルのことですか」

「まだ名を告げていない」

「皆様の前で妹を見つめながら、別の女性と仰るおつもりではないでしょう」

 貴族席の一部から、笑いをこらえる気配が伝わった。

 ルシアンの頬が赤くなった。

「言葉尻をとらえるな。私は君を傷つけない方法を考えているのだ。真の番が別にいるとしても、君がこれまで果たしてきた功績まで失われるわけではない。王家に残り、聖女としてミレルを支えれば、君も今までどおり尊敬を受けられる」

「殿下は、私が欲しいのではなく、私が担ってきた仕事だけを失いたくないのですね」

「そのような悪意のある受け取り方をするな。私は君の将来を心配している」

「私の将来を心配してくださるなら、なぜ今日まで何も話さなかったのですか。殿下はここ数か月、別の女性へ魂が引かれていたと仰いました。それでも私には、今日の儀式で結婚が決まると信じさせたままでした。私は王太子妃になるための礼装を作り、国中の祝賀へ自分の基金から費用を出し、今朝まで何も知らずに聖壇へ来る予定だったのです」

「確信がなかったから言えなかった。曖昧な感情で君を不安にさせるより、神の答えが示されてから話すべきだと考えた」

「ご自分は妹と心を通わせながら、私にだけ知らないままでいろと決めたのですね。それは気遣いではなく、殿下が責められずに済む時期まで、私の判断を先延ばしにしただけです」

「私は王太子だ。個人の感情だけで動くことはできない」

「私も聖女です。けれど、地位があるからといって、自分の不誠実さをすべて責務のせいにはいたしません」

 ルシアンは口を閉ざした。

 ミレルが親族席から立ち上がり、泣きそうな声で呼びかけた。

「お姉様、ルシアン様を責めないでください。私たちは、お姉様を苦しめようと思ったわけではないのです。ただ、気持ちを止めることができなくて、もし月神が私たちを番だとお認めになったら、そのときは正直になろうと話していただけなのです」

「私はまだ、あなたの名前を出していないわ」

 ミレルの顔から血の気が引いた。

「それは、ルシアン様が私を見ていらしたから……」

「そうね。誰にでも分かるほど見つめていらしたもの。だから、あなたが自分から名乗り出ても驚きはしないわ。ただ、二人でいつから話し合っていたのかは、後でゆっくり聞かせてもらいます」

「お姉様、私を嫌いにならないでください。私は、お姉様から何かを奪おうとしたのではありません。ルシアン様が苦しんでいらしたから、相談に乗っていただけなのです」

「あなたが本当に何も奪うつもりがなかったのなら、私のために用意した薬について尋ねられても、きちんと答えられるでしょう」

 ミレルの唇が震えた。

 ガストンが司祭たちの後ろで身じろぎし、退出しようとしたが、エララはまだ彼を指し示さなかった。今ここで薬の話をすべて公にすれば、証拠を奪われる可能性がある。

「薬とは何の話だ」

 ルシアンがエララへ向き直った。

「そのことも、後ほど証拠とともに説明いたします。今は、私自身の選択を終わらせてください」

「選択など、君一人で決められるものではない。我々の婚約は王家とヴェイル公爵家の契約であり、幼いころから教会にも認められてきた。今日、番の結果がどうなろうと、正式な解消には父上と公爵の同意が必要だ」

「結婚する二人の同意より、親と教会の許可が先なのですか」

「王族の結婚とは、そういうものだ」

「それなら、殿下は国と結婚なさればよろしいでしょう。私は人と結婚したいのです」

 エララは、もう一歩ルシアンへ近づいた。

「私は、私が苦しんでいることに気づかず、気づこうともせず、それでも自分は私を大切にしていると言い張る人を、生涯の伴侶には選びません。私の仕事を当然のように受け取り、私が離れようとすれば地位を与えると言って引き留め、私の意思より自分の評判を守ろうとする人を、愛しているとはもう言えません」

「君は混乱しているだけだ。今日の結果に傷つき、感情的になっている。少し時間を置けば、自分が何を失おうとしているか理解できる」

「殿下は、私が拒絶すると、いつも混乱していることになさるのですね。私が疲れたと言えば緊張のせい、嫌だと言えば誤解、離れたいと言えば感情的になっている。そうやって私の言葉をすべて聞かなかったことにすれば、殿下は一度も拒まれずに済みますもの」

「私は、君のためを思って言っている」

「その言葉を、私は十年間信じました。けれど今は、私のためになることを決める権利を、自分へ返していただきます」

 大司教アウレリウスが、穏やかな表情を崩さないまま聖壇へ進み出た。

「エララ、あなたの苦しみは理解できます。しかし、番の絆は人の感情よりも深く、月神が世界の秩序を守るために定めたものです。一時の怒りで拒めば、あなた自身だけでなく、王太子殿下の魂まで傷つけることになります。まずは儀式を終え、神の答えを受け入れてから話し合いなさい」

「大司教猊下は、月神の意思をどのように確かめているのですか」

「番印と月鏡が示す光によってです」

「では、互いの意思は必要ありませんか」

「もちろん必要です。ただし、人は傷ついたとき、真の望みを見失うことがあります。教会は、その迷いから魂を守るために存在するのです」

「私が自分の望みを見失っていると決めるのも、教会なのですね」

「あなたを支えるためです」

「誰かの自由を奪う人は、いつも支えるためだと仰います」

 大司教の微笑みが、初めてわずかに消えた。

「月神の絆を拒むというのなら、相応の代償を覚悟しなければなりません」

「代償を決めるのは月神ですか。それとも、月神の名を使う教会ですか」

「言葉を慎みなさい」

「私は慎重に選んでおります。今まで言えなかった分まで、一言も間違えないように」

 エララは右手を持ち上げた。

 手首には、ルシアンと同じ銀色の番印が浮かんでいる。その印からは、以前には見えなかった黒い糸が伸びていた。糸はルシアンだけでなく、大司教の持つ杖と、月鏡の水盤の奥へもつながっている。

 これは魂が自然に結ばれた光ではない。

 誰かが作り、誰かが管理している契約だった。

「古い番の誓約には、こう記されています。二つの魂は互いを知り、互いを望み、いずれも強制されることなく選んだときにのみ、伴侶として結ばれる。違いますか、大司教猊下」

「古い文言を現代の儀式へそのまま当てはめることはできません。時代とともに解釈は変わるものです」

「都合の悪い文言だけを、解釈という言葉で消すことはできません」

 エララはルシアンをまっすぐに見た。

 彼の顔には、怒りだけではなく恐怖も浮かんでいた。エララを失うことへの恐怖なのか、王太子として恥をかくことへの恐怖なのか、本人にも区別できていないのだろう。

「エララ、今ならまだ間に合う。今日のことは、薬の影響で混乱していたと説明できる。私は君を罰しない。だから、これ以上、自分の将来を壊すようなことを言わないでくれ」

「最後まで、私の言葉を私の意思だとは認めてくださらないのですね」

「君を守ろうとしているのだ」

「私は、守ってほしいのではありません。私が選ぶことを、邪魔しないでいただきたいのです」

 エララは静かに息を吸った。

 火刑台で最後に吸った空気は、煙と月桂油の臭いに満ちていた。今、大聖堂へ流れ込む空気には、白い花と香油の香りがある。

 同じ場所で、今度は死ぬためではなく、生きるために言葉を告げる。

「ルシアン・アルブレヒト殿下。私は、あなたとの婚約を望みません。愛情も、信頼も、互いを尊重する意思も失われた関係を、運命という言葉だけで生涯続けるつもりはございません」

「エララ、やめろ」

「私は月の聖女エララ・ヴェイルとして、誰かに決められた役目ではなく、自分自身の意思によって宣言いたします」

 父が席を立ち、ミレルが泣きながら首を振り、ルシアンがエララの腕をつかもうとした。

 その手が届く前に、エララは言い切った。

「私が、あなたを拒絶します」

 銀色の番印から、黒い炎が噴き上がった。

 ルシアンが苦痛の声を上げ、右腕を押さえて床へ膝をつく。彼の皮膚に浮かんでいた銀印は、熱した鉄のように赤くなった後、中心から黒く焼け焦げていった。

 同時に、エララの手首を縛っていた黒い糸が一本ずつ切れた。

 月鏡の水面へ亀裂が走り、大聖堂の最上部に吊られた月鐘が、誰も触れていないのに激しく鳴り響く。

 一度、二度、三度。

 三度目の鐘が鳴り終わる前に、巨大な鐘は中央から真っ二つに割れた。

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    第二十七話 返送された離縁状 銀盆に載せられた白い封筒は、かつての婚約者から届いたものとは思えないほど冷たく見えた。 表には、『我が婚約者エララへ』と記されている。何年も見慣れていたルシアンの筆跡だった。文字の形は昔と変わらないのに、そこに込められた意味だけが、今ではまるで違って感じられる。 我が婚約者。 エララが自ら婚約を拒絶し、古い誓約を断ち切ってからも、ルシアンは彼女を自分のものとして扱っている。竜皇ケイルと正式な契約を結び、ノクサール帝国の皇妃となった事実さえ、彼にとっては一時的な反抗にすぎないらしい。「開封なさいますか」 書記官が尋ねた。 エララはすぐに答えられなかった。封筒の右下に押された王太子の印は本物であり、その周囲には肉眼では見えない黒い糸が細かく絡みついている。文面を読む前から、偽りと責任転嫁が詰め込まれていることだけは分かった。「危険な術式が仕込まれている可能性は?」「魔術師が確認いたしましたが、呪いや毒は検出されておりません。ただ、ルーナ王国の外交使節は、皇妃殿下御本人へ渡すまでは中身を開くなと強く要求しております」「陛下は、この手紙が届いたことをご存じですか」「はい。先ほど報告いたしました」 エララが窓の外へ目を向けると、正門前ではケイルが民へ向かって頭を下げていた。自らの過ちを認め、妻に対する命令を撤回する彼の姿を見ながら、元婚約者から届いた親書を開くという状況は、あまりに皮肉だった。「ここへ置いてください。読むかどうかは、少し考えます」 書記官は銀盆を窓辺の卓へ置き、深く一礼して退室した。 扉が閉まったあとも、エララは封筒へ近づかなかった。 リナは薬草茶を用意しながら、何でもないことのように尋ねた。「燃やしましょうか」「まだ読んでもいないのに?」「だからこそです。読む前なら

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    第二十六話 守られるだけの妻ではない 紫色の煙の向こうで、銀の刃が振り上げられた。 エララは考えるより先に踏み込んでいた。ルーマを抱える女との距離は、わずか三歩だったが、人の命が失われるには十分すぎるほど遠い。護衛たちは人質を傷つけることを恐れて剣を振れず、ケイルもまた、黒炎を放てばルーマまで巻き込むため動けない。 刃が少女の首へ落ちるより先に止められるのは、自分しかいなかった。「私と契約しなさい!」 エララの声に応じて、胸の奥にある聖女の力が一気に目覚めた。伸ばした右手の甲で金色の契約印が輝き、そこから生まれた細い光の糸が、紫煙の中を駆け抜けて女の手首へ絡みつく。 女が目を見開いた。「何をしたの!」「あなたは、ルーマを殺せば依頼人から家族を返してもらえると約束されたのでしょう。けれど、その約束は偽物です。あなたの家族は最初から返すつもりなどなく、今もどこかに捕らえられている」「黙れ!」「黙りません。私には、あなたを縛っている偽りが見えます。もし私の言葉が間違っていると思うなら、ここで誓ってください。ルーマを解放し、私たちの調査に協力する。その代わり、私はあなたの家族を捜し、必ず生きて連れ戻します」 女の顔が苦痛に歪んだ。ルーマの喉へ押し当てた刃は震えているものの、まだ離れない。「あなたの言葉を、どうして信じられるのです。皇族は私たちを道具としか見ていない。あの人たちは、娘を助けてほしければ皇女を殺せと言った。失敗すれば、娘の指を一本ずつ切り落として送ると……」「だからこそ、ルーマを殺してはいけません。あなたが命令に従えば、彼らは次も同じ方法を使います。今回だけで終わると思わせていること自体が、あなたを支配するための嘘なのです」「分かったようなことを言わないで! あなたには、子供を奪われた母親の気持ちなど分からないでしょう!」「分かりません。分かるふりをすれば、それこそ

  • 運命の王太子に捨てられたので、呪われた竜皇の花嫁になります ~死に戻り聖女は偽りの番を拒み、世界最強の夫に溺愛される~   第二十五話 皇后が穀倉を開く日

    第二十五話 皇后が穀倉を開く日 ダルトンの指が皇太后イゾルデを指したまま、誰も言葉を発しなかった。 蝋燭の火が揺れ、長卓に積み上げられた帳簿の影が壁を這う。窓の外では風が尖塔を鳴らしていたが、その音さえ議場の静寂を恐れて遠慮しているように思えた。 ケイルは母を見ていた。 皇帝として疑惑を向けているのか、それとも息子として否定を待っているのか、横顔からは読み取れない。けれど、杖を握る手には血管が浮き、指先が白くなるほど力がこもっていた。「母上、何か言うことは」 ようやく発した声は冷静だった。しかし、その冷静さを保つためにどれほど感情を押し殺しているのか、隣に座るエララには分かった。 イゾルデはダルトンから目を逸らさなかった。「私が命じた覚えはありません、と申し上げれば、あなたは満足しますか」「満足するかどうかを聞いているのではない」「ならば、答えは簡単です。私は冬の備蓄を盗むよう命じておりませんし、ダルトンと西塔で会ったこともありません。ただし、私の印が使われている以上、知らぬ存ぜぬで自室へ戻るつもりもありません。私の私室、執務室、印璽保管庫を調べなさい。侍女も書記官も、必要なら全員拘束して構いません」 ローデンが椅子から腰を浮かせた。「皇太后陛下、潔白を主張なさるのですか」「今、そう申し上げたつもりですが、赤角竜家の当主は長い言葉でなければ理解できませんか。それとも、あなたは家令の証言一つで私を処刑台へ送りたいのかしら」「私は、自分の家令に裏切られたばかりです。もはや誰の言葉も信じる気にはなれません」「それは結構。領主としては、今までより幾分ましになったでしょう」 刺すような皮肉に、ローデンは顔を強張らせた。普段なら反論したに違いないが、今夜の彼には、忠臣だと信じていた男の罪を見抜けなかった痛みがある。怒りを返す気力さえ残っていないらしく、重い息を吐いて椅子へ座り直した。

  • 運命の王太子に捨てられたので、呪われた竜皇の花嫁になります ~死に戻り聖女は偽りの番を拒み、世界最強の夫に溺愛される~   第二十三話 皇太后の試験

    第二十三話 皇太后の試験 金色の炎は、小食堂に置かれたすべての燭台を一斉に包んだ。 炎は高く燃えているにもかかわらず、蝋燭を溶かすことも、近くにある布を焦がすこともない。夜明けを迎えた室内が、もう一度朝日を招き入れたように明るくなる。 エララとケイルの胸に刻まれた誓紋は、同じ速さで脈打っていた。 互いの心臓まで一つになったような感覚に、エララは思わず胸元を押さえる。痛みはない。けれど、自分の内側へ他人の鼓動が存在するというのは、安心と不安を同時に呼び起こす、ひどく奇妙なものだった。「ケイル、何か感じますか」「お前の鼓動が、先ほどよりはっきり聞こえる。それと、腹が減っていることも伝わる」「そのようなことまで分かるのですか」「自分の空腹ではない感覚が混じっている。お前のものだろう」「先ほどから食べています。あなたの空腹ではありませんか」「俺は食欲がない」「身体の状態と気持ちは、同じとは限りません。食べたくないと思っていても、身体は栄養を求めているのでしょう」「お前は、誓紋の調査まで食事へ結びつけるのか」「今のあなたには、難しい魔法の研究より朝食のほうが必要だからです」 エララは粥へ浸した黒麦のパンを、改めてケイルの皿へ置いた。 先ほどまで二人をからかっていたルマは、金色の炎を見回しながら目を輝かせている。小さな指を炎へ近づけようとしたため、イゾルデが素早く手首をつかんだ。「触ってはなりません。熱がないように見えても、何が起きるか分からないのです」 ルマは不満そうに頬を膨らませた。「確認したい気持ちは分かりますが、指で触れなくても調べる方法はあります。紙を近づけて、燃えるか確かめてみましょうか」 エララが尋ねると、ルマは機嫌を直し、何度もうなずいた。 リナが厚手の紙を一枚、最も小さな炎

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